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2016.06.23

廣瀬純「美味しい料理の哲学」#2 窓も扉もないグラスのなかで世界全体が反復される

ワイングラスイメージ

美味しさを語る言葉を、私たちはどれほど持っているでしょう。これほど多様な、美食といえる料理、素材、知識が手の届く場所にある現代の日本で、その豊かさに対応する言葉や論理は貧困なままではないでしょうか? 著作『美味しい料理の哲学』にて料理、そして美味しさを思考し、食の体験をより豊かにすることを目指した廣瀬純さんによる美食の哲学講義。第2回のテーマは、ワインのデギュスタシオン(テイスティング)です。

どんな事物も、世界全体を把握しようとがんばっている

野生の花

「理性的な生き物ばかりでなく、理性をもたない生き物も植物の生命も、またそれらを育む大地も、この世のものはすべてが観照(テオリア)を求め、これを目指している。そして、すべては本性の許す限りで精一杯の観照をおこない、その成果を収めている」

これは古代ギリシアの哲学者プロティノスの言葉です。「観照」とはここでは「世界を把握する」といった意味です。どんな事物も世界全体を把握しようとがんばっている。そしてそれぞれの事物はその努力の結果を我々に示している。どうして花々はひとを感動させるのでしょうか。どんな花も世界全体を把握しようと努めており、花の形や色、香りはその努力の成果そのものだからです。どんなに小さな花であっても、それ単体で世界全体のひとつの解釈をなしている。一輪の花を前にした我々の感動は、世界というものがかくも美しく解釈されるものなのかという驚きにほかなりません。

18世紀の哲学者ライプニッツも似た考え方をしていました。ライプニッツは一つひとつの個物が「モナド」であると論じた。「モナド」とは、哲学者自身が「窓も扉もない」と言っている通り、密室のようなものなのですが、その内部には世界全体が(ちょうど靴下を裏返すように)そっくり折り畳まれている。ただ、「モナド」ごとに世界のどの部分を明るく照らし出し、どの部分を暗いままに残しておくのかが異なる。この明暗配分(キアロスクーロ)において一つひとつの「モナド」は異なるというわけです。

グラスのなかに世界全体が反復されている

ワインイメージ

すべての事物はそれぞれ特異的な仕方で世界全体を反復している。ワインのデギュスタシオン(テイスティング)にみられるのはまさにこの考え方です。デギュスタシオンには「見た目」「味」「香り」の3段階があります。特に興味深いのは「香り」です。そこで動員される語彙の豊かさには誰しも一度は驚いたことがあるのでしょう。

「香り」の吟味はそれ自体、2段階に分かれます。まず、ワインの注がれたグラスをテーブルなどにおき、その上を手であおり、少し離れたところから香りを嗅ぐ。次いで、グラスを手にとって回し、グラス内に広がる香りを嗅ぐ。そのような丁寧な作業を通じて嗅ぎとられた香りを語るための言葉は、植物(キノコ、腐葉土、下草、煙草など)や花(アカシヤ、スミレ、エニシダなど)、果実(キイチゴ、レモン、アンズ、クルミ、イチジクなど)に由来するもののみならず、動物(ムスク、皮、毛皮、ジビエなど)や焦気(焙煎、ウッドチップ、炭など)に由来するものなど極めて多岐にわたります。

エニシダ醸造家やソムリエがワインを説明するために用いる語彙の以上のような豊かさはもちろんそれ自体、驚くべきものですが、さらにいっそう驚かされるのは彼らが「〜のような香りがする」とは言わずに「〜が含まれている」といった言い方をする点です。たとえばソーヴィニヨン種の白ワインを描写する際にはエニシダやツゲ、カシスの蕾やグレープフルーツといった語彙がよく用いられますが、そこで言われるのは、そうした植物や果実のような香りがするということではありません。そうではなく、そのワインにはそうした植物や果実が含まれていると言われるのです。

醸造家やソムリエの言葉は比喩ではない。彼らはワインを何か別のものに喩えてきらびやかな「盛った」表現をしようとしているわけではない。端的に、物質的に、そのワインのなかにエニシダが存在していると言っているのです。彼らもまた、グラスのなかに世界全体が反復されていると考えているに違いありません。自然界のすべての事物を網羅するかに思えるほどの彼らのボキャブラリーの広がりは、ワインそれ自体が自然あるいは世界全体をおのれのうちに反復しているというイメージを否が応にも喚起させます。グラスのなかでの世界の反復はしかし、その都度、特異的な仕方でなされる。エニシダがより明るく照らし出される一方で、アンズは暗いままにとどまるというように。

いま自分が手にしているグラスのなかでは、世界のどんな部分がより鮮明にその姿を現しているのか、それをひとつずつ言葉にするというのももちろん楽しい作業に違いありませんが、より密やかな愉しみとして、暗い部分に潜む無数の存在たちのその静かな囁きに耳を澄ませてみるのもよいかもしれません。

廣瀬 純(ひろせ・じゅん)

龍谷大学経営学部教授(映画論、現代思想)。1971年生まれ。著書に『アントニオ・ネグリ 革命の哲学』(青土社)、『絶望論』『闘争のアサンブレア』(共著、ともに月曜社)、『蜂起とともに愛がはじまる』『美味しい料理の哲学』(ともに河出書房新社)ほか。2015年5月に最新刊『暴力階級とは何か: 情勢下の政治哲学2011-2015』(航思社)を上梓。映画批評、また欧州や南米の社会運動など幅広く思考し舌鋒鋭く語る論客。

文: 田中竜輔

写真: Thinkstock/GettyImages

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